とりとめなくゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃

貰ったゴジハム君は緑。

さすがガメラを三作撮った人の作品。クオリティは凄く高い。……と言った所、ガメラと言えば昭和ガメラの印象しか無い母親からはピンと来ないと言われてしまった。

キャストは豪華。ただし、本当に十秒映るか映らないかのゲストを幾人も出しているお蔭でスタッフロールは混乱してるわ、ストーリーテリングでは主人公達の行動がぶつ切りにされるわ、小ネタが満載なのは構わないがそれが映画を喰ってしまっている気がする。言うなれば、ゴジラ(1984)で武田鉄也が全編に渡って茶々を入れている様な感じ。またメインキャストにゴジラ映画本格参戦はこれが最初のバラゴンは置いてといても、近年も主役をはったモスラや東宝怪獣順レギュラーの位置を獲得しつつあるギドラに護国三聖獣と言う全く新しい役を振っているのに全然活かし切ってない。

怪獣の性格

いみじくも映画本編で語られる様に日本は災いをもたらした元兇を神と崇める事で味方に引き入れてしまう一種独特な風習を持っている。一番分かりやすい例で言えばドラゴンボールのピッコロ、ベジータ、ブー(ウーブ)がそれに近いかもしれない。ゴジラやラドンもまた例外ではなく、モスラ対ゴジラでは(元々モスラの存在は正に傾きやすかったので)モスラの負の部分を(負のイメージが大きすぎる)ゴジラが全てを引き受けた様に、地球最大の決戦でゴジラ、ラドンの負の部分は全てキングギドラに引き継がれ、以降ゴジラ、ラドン、アンギラスと言った御馴染の怪獣達は「人類の味方」としての地位を確立している。キングギドラにこのチャンスが与えられたのは先ずゴジラvsキングギドラでの改造手術だった。祭り上げられたゴジラの存在に反して高まった初代ゴジラへの回帰の声を受けて復活したゴジラ(ただし、ゴジラ[1984]の時に使われたストーリーは初代に直結と言う構成上の説明が、後のミレニアム以降の原点回帰の方便に使われる様になってしまったのを見逃してはならない)であればこそ、キングギドラが全て引き受けていた(或はガイガン、メガロ、メカゴジラ等の後発組と分かち合っていた)その負の部分を移す事が出来た訳だ。

ただ、復活したゴジラ映画では社会状況を反映し、怪獣の持つ負の部分を人間にも当てはめる様になっていた事、そして何よりも強烈な正の性格を持つモスラが復活した事でギドラの立場は再び逆戻りする。幻となったモスラ復活作モスラvsバガンでは既にモスラの負の部分を引き受けてくれるバガンが設定されている。もはやモスラに負の性格への逃げ道は無いのだろう、その後単独主演を勝ち取ったもののギドラにダガーラと言った負の部分を引き受けてくれる怪獣との共演は避けられなかったようだ。残念ながら単独主演での復活がご破算になり、既に復活を遂げたゴジラのネームバリューも見込んで製作されたゴジラvsモスラの後、メカキングギドラとして与えられた正の部分は、あろうことかメカゴジラとして独立してしまう。しかも独立したメカゴジラはそれまでただの傍観者、被害者だった人間への負の部分の流入も相まって逆に負の部分を作り出し、ゴジラに生命の神秘と言う正の部分を与えてしまう。

正義のゴジラ再び

さて一旦正の部分を与えられたゴジラを止めるものは何も無い。vsスペースゴジラvsデストロイアと、ガイガン、メガロ式に登場した共演者の影響、そしてvsメカゴジラで得た家族の存在もあり、ゴジラの負の部分は急速に薄くなって行った。それはゴジラを鎮める巫女としてシリーズを通して設定される事になる三枝未希の言動から見て明らかだ。本来vsシリーズとしての終わり、序破急の急を勤め、その後のUS版ゴジラを待つはずだったvsメカゴジラで設定された性格の変化が、地球最大の決戦以降続くオールスターシリーズ、シリーズの再現を助長してしまったのは興味深い。ようやくUS版ゴジラの見通しが立った所でモスラの単独主演が決まりその共演としてギドラがキャストされ、ギドラの性格の転換は先延ばしになってしまった。

僕はゴジラが正の部分へと傾いてしまうのは先述した理由からある意味仕方の無い事だと思うし、そう言うゴジラも好きだ。ただ、熱心なファン程そう言う祭り上げられたゴジラを嫌う様で、映画の一テーマとしてvsデストロイア以降ほとんどサブリミナルの如く原点回帰と繰り返す様になってしまった。にも拘らず皆当然の様に勝ち進むゴジラを見たがっているのである。そう言うアンビバレンツから生まれ続けた作品が平成シリーズではないかと僕は考える。中でも、脳天気なUS版GODZILLAが見せたゴジラに対する惜しみ無い愛情が火に油を注いで、最もきしみをあげていたのがミレニアムだろう。本当にのし歩くゴジラを魅せる(僕はそれで十分だけど)以外は全く練られていない。兎に角US版GODZILLAに対抗しようと、取り敢えずミレニアムって何か流行だからと、そうやって出来上がったゴジラは正にのし歩き、時に火を噴くゴジラそのものを撮る為だけに出来た様な映画だったと思う。実際、映画としての面白さ云々を突破らうと、ゴジラを撮ってるだけのシーン、カットは一番カッコイイと思う。GMKでも撮られたヒロインが自転車でゴジラと並走するカット、ミレニアムでは主人公の車が並走するカットを比べれば、ゴジラのデザインと言いカメラワークと言い僕ならミレニアムに軍配を挙げる。

ゴジラはかっこよくなくっちゃね!

そう、今回はゴジラのデザインがかっこ悪かった。首から上、或はバストショットを見る分にはいいのだが、いざ全身像となるととたんにぼってりした下半身がどうしようもない自己主張をしてしまうのだ。直立を前提に頭までデザインされたvsゴジラとも、スーツアクターに無理強いを承知で前傾姿勢を採るミレニアムゴジラとも違う、非常にダサいものに見えてしまう。……今回のもKIRIN FIREWONDAの広告のゴジラみたいに天に吠える時はかっこいいと思うのだが。あと、熱戦。どうやらゴジラの熱戦が青白かったのはチェレンコフ光のイメージだったかららしい。ガメラっぽいのが嫌だったのか。昔Kouがウルトラマンティガに対してせっかく割りとプリミティブなウルトラマンなのに、なんでストリング光線並のおおはしゃぎなゼペリオン光線なのかと言った時、そりゃウルトラ六兄弟とウルトラマンレオぐらいしか知らない人には分からないかもしれないが、80の割と地味なサクシウム光線や光線としての華が全く無いウルトラマングレートのバーニングプラズマ、メガスペシウム光線なんて名前で十字なのは腕だけではなく光線もと言う一見豪華な割に特撮そのものまで寂しかったウルトラマンパワードを見ていた身には、非常に興奮する溜ポーズだったんだと説明した事があった。逆にミレニアム×メガギラスとやたらガメラ臭い熱戦を見てきた身としては青白い熱戦には嬉しさがあるものの、背中がvsゴジラ臭く光る溜の時に口の周りにゼペリオン光線よろしく集まる光のエフェクトやマズルフラッシュはあまりにもガメラ臭く、これなら背鰭がバチバチと爆ぜながら焼いた鉄の如く灼熱に輝くミレニアムゴジラの方が遥かにかっこいい。

いよいよギドラも……あれ?

話を戻してようやく正の部分を性格に据えて登場したギドラだが、悲しい事に映画全体がゴジラへの愛情の詰め込み過ぎで影が薄くなってしまった。対メカゴジラで主役である筈のゴジラの影が異常に薄くなり、メカゴジラが完全にその存在感を喰ってしまったのと似ている。特に、ゴジラとの初バトルでギドラが何の前触れもなく地中から登場したのは、メカゴジラがゴジラに偽装して町を破壊していた時に唐突にほんまもんのゴジラが工場の中から出てきた(様に見える)のとかぶる。これが当初企画されていたバラン、バラゴン、アンギラスの地味怪獣総攻撃であったなら華を持たせてくれたと言う意味でも拍手喝采大絶賛ものだったのだが、モスラ、ギドラと言うただでさえ華を持ち過ぎの怪獣だったお蔭で反って印象が薄くなってしまった。僕の中ではただでさえ地味な役回りでコテンパンにやられるのが健気だったバラゴンの方がよっぽど印象に残った。この面では、アンギラスもキングシーサーも引き立て役としていい印象を残した対メカゴジラとは違っている。

バトルのタルさも問題。折角モスラのお蔭でかっこよくキングギドラに生まれ変わったのに、そのあとスーパーサイヤ人モードを解いて海に落ちたゴジラを追い掛けて行ったらまた反撃され、挙げ句に削岩弾搭載魚雷が命中して気絶と言う醜態を晒してまた危機一髪!、ヒロインのお守りの喝で目が覚める、と言う筋書きなのだが、一回のバトルでしかも初登場のスーパーサイヤ人がまた危機に陥ってしまうなんて事をやればダレてしまうのは当たり前。結局ゴジラに敗れて最終的には幽体となった三聖獣がゴジラに取り憑いて沈める、と言う甚だオカルトな決着を付けるのがさらに悪い。ヒロイックサーガに必要な条件は満たしていても、蛇足に蛇足を重ねてしまっている。対ガイガンで延々繰り広げられるタッグマッチをつまらなく感じたのと同じか。そう言う意味では平成モスラはあくまでも基本に忠実に従っており、起承転結のレベルも分かりやすいのでテンポ良く見られる。例えばM3でギリギリまでキングギドラの恐怖を引っ張り、行きは特急、帰りは鈍行の大どんでん返しの後はあくまで鎧モードモスラの活躍だけを描いている。一旦ひっくり返ったちゃぶ台をすごすごと戻し、またひっくり返した所で面白くないのだ。

そしてとりとめない話は続く……

僕は平成モスラのサントラは全て完全版の方を持っており、キーキャラクターのライトモチーフを聞くだけですぐにキャラクターを連想できる。これは映画の進行に併せてライトモチーフを組み合わせて伴曲を構成しているお蔭で、関連付けられたイメージによって映像表現以上の表現を得る為にも欠かせない手法なのだが、残念な事に今作は「怪獣」に当てられたライトモチーフをゲームの背景曲の様に流すだけなので、特に後半のバトルでは全然盛り上がらなかった。ゴジラ、モスラで行われていた様な伴曲を構成すると言うのは贅沢な事で製作予算が削られている状態ではしょうがないかもしれないが、映画本編で使用された音楽がほとんど頭に残らずスタッフロールの伊福部マーチの方がはるかに印象に残ったと言うのはどうしようもない。ミレニアム×メガギラスのの方がいくらか印象に残る。

一緒に見に行った.exe曰くあんなに人が死んでいるのに爽やかエンディングは納得いかないとの事。パンフレットで監督は原点回帰地球最大の決戦並のどきどきわくわくを詰めたと言っている。おそらく、それが問題なのではないか。以前ECCO's ECHO時代にも書いたがGIIIではガメラを許さないと言うセンセーショナルなキャッチコピーに非常に期待させられたが、その期待に応えられる事もなく、予想を裏切られる事もなく何かうやむやのにストーリーが進むうち、途中で幼い少年にガメラが僕を助けてくれたよと断定されてしまいげんなりした覚えがあるのだが、この人、映画が大好きでしょうがないので怪獣映画に切り込みを入れる、でも怪獣が大好きでしょうがないので切り込みが中途半端に終わってあとからそこを絆創膏で埋めてしまう様に僕は感じている。

面白い事に、新世紀になってこれだけパラレルゴジラワールドが生まれているにも関わらず初代のストーリーに改変が加えられたのは事実上×メガギラスだけだ。大怪獣空中決戦でガメラを完全にリセットした監督も、さすがにゴジラはリセット出来なかったのか。……いや、どちらかと言うと平成ガメラを撮る為に昭和ガメラの設定、世界観ではどうしようもないと判断しての事かも。スタッフ達は未定のゴジラvsガメラに意欲的なのだそうだが、そうするとひょっとしたらゴジラにも完全なリセットの機会が与えられるかも知れない。少なくとも、ヘドロに沈んだ心臓から復活しました、と言うのはやって欲しくないな。あ、ヘドラ?

或は、このペアにこだわる必要も無いかも。キングギドラも最近モスラと一緒にゴジラとは別に営業したし、ガメラvsキングギドラ、とか、モスラvsガメラ、とかでも面白そうだ。いや、折角の初ガメラ対決なんだから不憫と言われてもバランやアンギラスは出せない。少なくとも最近のタイトルホルダ、準タイトルホルダでなければ。キングギドラの単独映画もいいかも……地球が破滅して終わるかインディペンデンス・デイみたいになりそうだから、対戦怪獣として幻のバガンを出すか、誰にも知られてないドゴラ辺りを引っ張ってくるか。ヒロイックにいろんな設定が施されている平成ガメラだから、設定が貧相なゴジラよりもガメラと同じ様に設定されている平成三部作モスラとの対決が一番いいな。問題なのは、この両者をどうぶつけるか、だけど。そう言えばどっかのイベントでやってたクウガvsアギトはどう言う設定だったんだろ? 現存する超古代文明人であるエリアスとガメラを造った超古代文明人にあった確執と、それにより互いに排除する様プログラムされ、謂れ無き戦いを強いられる両怪獣の苦悩を描く、とか。あ、いや、ガメラは確かに作り出されたものでも、モスラって単にアミニズムな守護神だったっけ?

モスラvsガメラ妄察を、そのうちに書こう(笑)。

ecco